【Podcast版 週末シネマノート】おじさん、真夜中のカーボーイを語る
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実はこの作品を初めて観たのはまだ5,6年前と比較的最近。とても斬新で残酷な世界観に魅せられた。
オープニングで軽快に響くハリー・ニルソンの”うわさの男”(everybody’s talkin’)にのせ、全身からやる気のみなぎった笑顔で登場のジョン・ヴォイト。皮肉にもこの「やる気みなぎる笑顔」こそがこの映画最大の彼の絶頂期なのかも知れない。
希望と夢だけを武器に単身テキサスからニューヨークへと乗り込むジョー。ふとしたことで知り合ったラッツォと共に見えない敵と戦い敗れていく様は夢も希望もない。
自由の国アメリカ。その自由の裏側に潜む自己責任という過酷な現実を前に、力なき2人は完膚なきまでに叩きのめされる。それでも一縷の望みにすがる二人の儚くも奇妙な友情。
どん底を彷徨う二人が最後にたどり着くべき場所とはーーー

【自由の国でのサバイバル。戦う相手は”自己責任”】
本作はアメリカという国の表裏を描き出した怪作だ。
アメリカンニューシネマの代名詞とも言われる本作だが、他の作品との明確な違いがあり一線を画している。その違いとは打倒すべき「明確な敵」が存在しない点だ。
あるものは”現実”という抗えない事実のみ。
オープニングでの軽快なジョーは明るく自由奔放。
テンガロンハットにウエスタンブーツで決めたジョーはカウボーイスターよろしく、絵に描いたようなアメリカを体現している。
皿洗いでコツコツ貯めた小銭を手に、ニューヨークで一旗揚げようと決意するジョーの姿はあまりに無垢で危うい。
しかし大都会ニューヨークは彼を歓迎しなかった。
現実の前に夢は無惨にも打ち砕かれあっという間にどん底へと叩き落される。
希望しか見えていない輝いた目や笑顔は全能感が削られ次第に生気を失っていく。
こういった機微を表現するジョン・ヴォイトの演技は見事と言う他ない。
そこに救いの手は差し伸べられない。これこそが自由の代償 「自己責任」だ。
国はもとより、持たざるものは相手にされず救ってももらえない。
自由というイメージだけが跋扈し、その裏に潜む冷徹な自己責任が牙を剥く。
勝ち続けなければ生き残れない、表立って語られることの少ないアメリカの姿を二人の敗者が静かに、鮮烈に映し出していく。

【孤独を埋め合う奇妙な友情。二人が触れた束の間の温度】
ジョーもさることながら、もう一人の主役と言ってもよいラッツォ。演じるは名優 ダスティン・ホフマン。登場人物の中でも極めて個性的で特徴的なラッツォを演じたダスティン・ホフマンだが、主役のジョン・ヴォイトを食う勢いで名演技を見せる。
ラッツォは足の不自由な小男。
ジョーをペテンにかけた事から二人の奇妙な友情は始まる。
ラッツォがジョーをペテンにかけるニューヨークの喧騒の中、走行中のタクシーを叩き
「I’m walkin’ here!(俺はここを歩いてるんだ!)」
と怒鳴り散らすラッツォ。あまりにも有名なこの即興シーンは単なる悪態ではなく、都会に無視された男が、剥き出しの存在証明を叩きつけた瞬間として観るものの胸に人としての尊厳を叩き込む。

何をやってもうまく行かないジョーが落ちていくのに時間はかからなかった。残りの所持金も底が見えてきた頃にラッツォにカモられるジョー。所持金もなくなりホテルを追い出されるジョーだが、その後ラッツォと邂逅とも言える再会を迎える。
「泊まるとこがないならおれんちに来いよ」
ラッツォのこの場当たり的な優しさが、二人の運命を分かちがたく結びつけた。
過去の愛を失い、男娼としての成功を夢見て都会へ来たが、現実に打ちのめされたジョー。過去から逃れられず、いまだ底辺から這い上がれずにいるラッツォ。この二人の関係は共依存のような友情だ。出自や身体のハンデ、都会での孤独感それらを互いに埋め合っているのだ。決して健全な関わり合いではないのかも知れないが、簡単に共依存と割り切ってしまうにはあまりにも儚く悲しいつながりだ。 彼らは互いを利用し合っているようでいて、その実、互いの「尊厳」を守り合っていたのではないか。そしてダスティン・ホフマンの諦めにも近い表情がより一層儚さに拍車をかける。
最初こそ猜疑心を持っていたジョーも男娼とマネージャーという役割をお互いがこなすことにより次第に言葉を超えた絆を見出していく。それはラッツォも同じだ。互いが互いを気遣い、貧しいながらも都会の片隅で歪で健気な友情が育まれる。 寒空の下で二人が分けあったのは単なる毛布ではなく、人間として扱われない都会で唯一触れることの出来た「体温」だったのだろう。

ラッツォは寒いニューヨークを離れ暖かいマイアミでジョーと過ごすことを夢想する。
しかし現実は厳しく、掴みかけた運までもすくい上げることが出来ず、手のひらから滑り落ちていくーーー
また、光り輝くマイアミの景色を夢見るほど、ニューヨークの寒空や廃ビルの影が二人の輪郭を色濃く映し出す。
【カウボーイを脱ぎ捨てる時。31時間で見た夢想家とカウボーイの夢】
名作と呼ばれる数多の作品の中でも屈指のエンディングだ。
ド派手な演出も伏線回収もなく、地味で暗い物語の終焉だが、そこには二人の人生の機微が映し出され、切なさや悲しさだけではない、希望、絶望様々な感情が入り混じった複雑な思いを抱くだろう。
ひょんなことから参加することになったセレブパーティー。そこで顧客になるかも知れない女と出会い20ドルを稼ぐことに成功し、さらには次の木曜日には別の女性との契約も。男娼としての仕事がもしかしたら軌道に乗るかもしれないと運が向きかけた時、ラッツォの容態は悪化。ジョーはラッツォをフロリダに連れて行こうと決心する。

早速ジョーはパーティーで知り合った女に金を無心するが女は捕まらず、ゲームセンターをうろついているところを真面目そうな中年男に声をかけられホテルに連れ込まれる。
「今友達が病気なんだ。お前とは寝れん。やつを南へ連れて行く
病気なんだ、南へ連れてってやるんだ。わかるか 奴のためだ」
そう言い中年男に金を無心する。手渡されたのは10ドル。バス代には全然足らない。
ジョーは心を鬼にして男を殴り倒し金を奪う。何があっても暴力を振るわなかった心優しいジョーがだ。全ては友人であるラッツォのためだ。
奪った金でフロリダに向かう2人。31時間の旅だ。
マイアミについたら俺のことはラッツォではなくリコと呼んでくれと新転地で新たなスタートを夢見るラッツォ。
朝目覚めると失禁していたラッツォ。もう自分一人では何も出来ないことを悟り、不甲斐なさに涙する。
「フロリダに行くってのに脚は痛い、尻も胸も。挙句の果てに小便まみれだ」
ラッツォだけ予定より早く小便休み下だけだとジョーは優しく微笑む。そこにはニューヨクでみせたギラついた面影はない。
休憩所で立ち寄った町で二人の着替えを買う。バスに戻るジョーの脇にはカウボーイスタイル一式が抱えられている。もう彼はカウボーイではない。
ゴミ箱に突っ込まれたカウボーイスタイル。それは新たな町で新たなスタートを切るためのジョーがすがっていた「虚飾の自分」との決別だ。

ここで挿入される”うわさの男”はまさに神がかり的演出で、オープニングでの勇猛果敢にテキサスを後にするジョーと、夢破れ現実を知ったジョーとの対比で見事に結んでおり、おおよそ見当がつく二人の未来にわずかながらの希望を見せ、後の残酷さを際立たせる。
新たなスタートを切ることに対する気概と過去の自分を捨て去ることへの戸惑いが入り混じった表情、そこにはニューヨークに向かう時のがむしゃらな自信ではない、「抗えない現実」を知った大人としての確固たる自信が宿っていた。

ジョーは少しでも居心地がいいようにラッツォを後部座席に移し語る
マイアミに着いたら女で儲けるのではなく、外で仕事をして稼ぐんだと。
その表情は憑き物が落ちたような清々しさそして潔さがある。 しかし、ラッツォの返事はなくすでに息を引き取っていた。
目を閉じてやれ バスの運転手に促されラッツォの目を閉じる。 マイアミを目前に夢想家の夢は潰え、ジョーの前からはまた一人、大事な人が去っていってしまった。 そんなラッツォの亡骸を人目も気にせず抱き寄せるジョー。 31時間の旅。夢は叶わなかったが、お互いにとって一番人間らしい時を過ごせたのではないだろうかーーー

アメリカンドリームの裏側に潜む現実を見せつけた本作。成功とは?幸せとは? 明確な答えは存在しない。カウボーイと夢想家が個々の心に問いかける夢の終焉である。
現実は厳しいと知りながらも後のジョー、あの世のラッツォには幸せでいてもらいたいと考える私もまた夢想家なのかも知れない

【あらすじ】
金持ち女を相手に男娼として一旗揚げようとテキサスの田舎からニューヨークへとやって来たジョー。
現実は甘くはなく、カウボーイ気取りのジョーの夢は都会の冷たさに無惨にも崩れ去っていく。
ふとしたことでジョーはラッツォと呼ばれる一人の男と出会う。
咳き込み足を引きずって歩く小男とジョーは負け組同士、反発しながらも次第に友情を深めていく。
しかしラッツォの病状は日増しに悪化していく。
ジョーはフロリダに行きたいと言うラッツォの夢を叶えようと大きな決断をするーーー
監督 ジョン・シュレシンジャー
公開 1969年
上演 113分
ジョー ジョン・ヴォイト
ラッツォ ダスティン・ホフマン



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